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成熟のアブジェクション

成熟のアブジェクション
Cover of Mecademia 6
フレンチ・ラニング『アンダー・ザ・ラッフルズ(“Under the Ruffles: Shōjo and Morphology of Power”)』メカデミア 6(ミネソタ大学出版局)から、3~19頁の抜粋を読んでみましょう。

「少女」とは

少女は、「女の子」と訳すことができますが、「女の子」という言葉からは、「少女」という言葉に内在するニュアンスが伝わりません。日本の文芸評論家であり、作家でもある大塚英志は、かつて、少女について、子供と性的に成熟した女性との間の、女性の一生の一期間であると定義しました。近代化以前には、女性の一生は、2つの期間に分けられていました。すなわち、児童としての期間と、労働人口に加わり、子どもを出産することができる成熟した女性としての期間です。しかし、近代化によって、女性の教育システムが導入されました。ただしこのシステムでは、学校の女子生徒は児童であり、女性としてはまだ性的に未熟であると見なされていました。大塚は、「社会システムで、生産集団から切り離されている少女は、成熟することを恐れています。」と述べています。(少女 民俗学)(5)したがって、少女期とは、ほとんどがそのアイデンティティ、身体、成熟度、関係性に関する問題を体験する女性の思春期に相当するといえます。さて、フレンチ・ラニングは、少女の特性について次のように考察しています。

少女は、存在し得る限り最も複雑で深遠な女性的存在だろう。最も分かりやすい表現からアプローチしようとすれば、少女はその表象の視覚的形態を通して自身のアブジェクトな状態を露わにする。これらの表象は、ファンの行動から少女文化の内側で作られる物語まで、様々な形態をとる。少女の形態は、マンガやアニメ本体や、マンガやアニメ内に現れる身体から抽出される。これらの身体は全く安定を欠いており、実体を持たない。形状変化という魔法のおかげでジェンダーが架空の観念となる限りにおいて、身体は危険な旋回と転換を行い、本来のジェンダーなど存在しないと宣告しているかのようだ。マンガやアニメの作り手に少女の身体が提供する基板には、ジェンダーを放棄したいという願望と、ジェンダー抜きにジェンダーの葛藤を表現することの不可能性との間に生じる緊張が刻み込まれている。アブジェクションの表象である少女のキャラクターは、ひとつの幻影である。すなわち、文化の想像の範囲を超えたもの、願望のユートピア的でディストピア的な潜在可能性を超えたものを生みだす力を持つ。表面的には、少女は文化的アブジェクションをまとっている。女性的存在のうち最も脆弱で過小評価されている少女は、ロマンスの幻想に容易に誘惑・説得され、他のジェンダーへ、メインストリームの文化的意義やアジェンダからは無価値に扱われる存在へと容易に変身する。女性の生きる状態を表象する少女は、アブジェクション的存在の境界問題を象徴しつつ、内側/外側の二項対立を完全にフィクション化する。しかし、究極的には、どちらも同じことである。少女の身体は、無限の転換のファンタジー、私たちを拒絶するもののファンタジーを、私たちが望む方法で提供することで、アブジェクションの物語を明らかにする芸術品なのである。

少女とアブジェクション

既に述べたように、少女たちは成長することを恐れています。しかし、彼女たちの身体は次第に性的に成熟していきます。このようなとき、少女たちはどうしたらよいのでしょうか?
アブジェクションは、内的精神状態と外的身体間の漏出への恐怖に示されている。少女の身体において、成熟した女性の身体の経血はこの漏出の現れである。「過剰な外側または内側から生じるように思われる脅威」であるところの経血は、ヘテロセクシュアルな座標軸において、女性の性的成熟と母性に課せられる文化的重責を表しており、その結果、「可能な、許容し得る、考え得る範囲を超えて排出される」恐怖をもたらす(1) 。この内的状態は、身体の内側に存在すると理解されているものによって示されるとともに、「身体上に記されたものによって示される」(2)。この表示こそが、少女的物体の極めて具体的な集合から選ばれた様々なアブジェクション的物体を通して、身体に収容または包囲される自己のアイデンティティの構造を提供する。ある意味で、アイデンティティは、身体に記されたラベルであり、自己の容れ物なのである。
少女にとって、成熟のアブジェクションに対する反応と、その結果として生じる主体性と力への渇望は、無垢と純真の仮面劇、すなわち少女ヒロインたちが持つカワイイ性質を表す子どもじみたサインによって構成されている。しかし、ヒロインたちが力と主体性を暗示しようとも、女の子を最も弱い人間とする見方は支配的だ。この一見矛盾した状況の答えとなるのは、アン・マクリントックがサディズムとマゾヒズムについて述べた、「変化する社会矛盾から象徴的ロジックを引き出す歴史的サブカルチャー」という説明である。マクリントックはさらにG・W・レヴィ・カメルの「服従したいという願望は、承認されたいという願望の奇妙な転位である」(3)という一節を引用している。
理想の形態が少女のために用意されていた。それは、ヴィクトリア朝に定められた、無垢、純真、愛らしさ、女性らしさの特定の「シーン」を想起させる形である。この女性らしさの力は、出産する能力によるものではなく、潜在的な「純粋で無垢」な性というイメージに由来する力である。マクリントックが述べるように、「他者の視線が注がれる見世物であることから得られる力は曖昧な力であり、見る者のまなざしを内面化し、見る者の力を代わりに享受することを可能にする」(4)。これこそ、少女の革命的で矛盾した力の謎を解く鍵である。
成熟した女性の性が脅威となることに対しての防衛の要として、少女の人格は、現実の具体性との対立に向かって、身体の表面が「忍び寄る」ことを可能にし、安全な征服と子ども時代の象徴とで作り上げた鎧で防御するのである。

皆さんの考えは?

この講義では、皆さんは、少女の重層的特徴について学習しました。彼女たちは、主体性と権力を願望しつつも無知で、ひ弱で、未熟です。上の論文に記載されている「純粋で無垢な」セクシャリティが、皆さんにとって実際の意味もしくは現実的意味あるいは意義があると思いますか? 詩、小説および映画における例について考えることができますか?皆さんの考えを共有してください。(ただし、皆さんのコメントに特定の人物を名指ししないように注意してください。)

© Keio university
This article is from the free online

日本のサブカルチャー入門

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