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カワイイもの

Kawaii-ness has been slightly changing in years. This article explains the development.
© Keio University

かわいさは、近年、少しずつ変化しつつあります。では、何冊かの少女漫画におけるかわいさを探求し、21 世紀におけるかわいさについて考えてみましょう。

綿の国星のチビ猫

大串尚代「不思議なかわいい猫たち:少女漫画とアニメにおける日本のカワイイ文化を再考する」(2014年ロンドン開催のロイヤル・ソサエティ『Exhibiting Japan』にて発表)より一部抜粋

キティのデビューから数年、ガーリーな絵柄と哲学的なストーリーで知られる少女漫画家の大島弓子が、『綿の国星』(1978~87)(1)の連載をスタートさせます。物語の主人公兼語り手は、須和野ファミリーに拾われた生後2か月の捨て猫です。チビ猫と名づけられた子猫は、自分を半分人間と考え、自分の姿を猫耳の女の子として表現します。どういうわけかチビ猫は、自分がいつか成長して人間になると信じています。

The Star of Cottonland Fig. 1. 『綿の国星』 1巻 表紙、2巻, p. 12 大島弓子 1978-1987年 「LaLa」白泉社

チビ猫は、可愛らしい白猫で――ハローキティのように――白いドレスを着て白いフリルのエプロンをつけ、瞳は青くふわふわの巻き毛をしています。無邪気で、無知で、須和野ファミリーの庇護がなければ生きていけません。 [fig.1]

同時に、チビ猫はその無邪気さを通じて、幸せと他者への共感を拡散しながら、世界の仕組みを学んでいきます。といっても、いつまでも大人、つまり人間になることのないチビ猫は、永遠に子どもであり続けます。この点で、チビ猫は自分自身のアイデンティティに幾何かの不安を感じる少女に特徴的な感情を反映しています。しかし、チビ猫いわく、チビ猫が答えを導きだすことはありません。なぜなら、「ひとつの事をかんがえつめようとしても、もう次の考えにうつってしまいます。外のけしきが一日一日とうつりかわってゆくからです」。チビ猫は、自身が永遠の存在である故に、時間の流れを認識することができないのです。これこそ、カワイイの一時性であり、成長する運命にある少女たちはこの未熟さに焦がれるのです。

少女漫画の作家たちは、1949 年生まれ

大島弓子は、24年組と呼ばれる漫画家のひとりです。24年組とは、昭和24年つまり1949年に生まれ、少女漫画家としての業績によってこのジャンルの基本的な形式と文法を作りあげた作家たちを指します。少女漫画において24年組が生みだした革命的な詩学の特徴のひとつは、主人公が自身の不安を語るモノローグ、あるいは内面の吐露にあります(近代小説の意識の流れに似ています)。大塚英志によれば、少女たちが抱える不安のルーツは、戦後日本の民主化期における「母親」としての役割からの解放に溯ります。女性にそれまで課せられていた伝統的で抑圧的な役割からは解放されたものの、少女たちを導く新しい方向性はまだ示されていませんでした。カワイイの体現者である『綿の国星』のチビ猫は、子どもと若者の領域を、大人のそれから明確に区別しています。すべての女の子から愛される、無表情なカワイイ猫のハローキティは、甘えに基づく関係性を提供し、少女たちはキティと一緒にいるときは自分自身でいる時間と場所を得ることができるのです。

猫のかわいさ

猫は優雅に自立した非常に気位の高い生物ですが、時たま媚びるような仕草を見せて人間との関係を維持します。そういうところが猫好きに愛されていることに初めに気がつきました。独立と依存が矛盾することなく両立し得るなら、それらは1970年代の少女のカワイイの完璧な表象であり、猫の文化的イメージの結晶となります。

コワイイとカワイイ

猫を最も魅力あるカワイイ生物たらしめているのは、その万華鏡のような性質なのかもしれません。1990年代に、コワイイ猫の誕生という興味深い現象が起きます。コワイイは、カワイイ物に存在する恐怖や不安を表現するために新しく作られた言葉です。1990年に登場したねこぢる(2)によるこのイラストを見れば、コワイイのニュアンスを分かっていただけるでしょう [fig.2]。このストーリーの主人公は、猫の姉弟、にゃーことにゃっ太です。ふたりの父親は無職のアル中で、母親が一家を養っています。面白いことに、この漫画が伝説的なアングラ漫画雑誌『ガロ』に初めて掲載されたとき、日本はバブル経済の恩恵を享受していました。

Nekojiru Fig. 2. 『ねこぢるうどん』1巻 p. 9 ねこぢる 1990年 「ガロ」青林堂

『ねこぢるうどん』は、日本がまだ貧しい国であった頃を思い出させる郷愁の念を喚起します。この漫画に描かれる過去は、つかみどころのない不思議な空気とともに現在に反映されており、この空気は無邪気でかわいい存在であるはずの子猫たちの残酷さの中に説明されています。にゃーことにゃっ太は、ある意味において、児童虐待の犠牲者であるけれども、決して非力な子どもではありません。ペットの犬や、小さな昆虫、または年寄りの猫に対して、残酷さや暴力性を発揮します。

カワイイものの沈黙

優しさが消えたとき、カワイイは誰も制御することのできない不思議な側面を露わにしました。エミリー・レインは、シアン・ンガイの「かわいさ」についての議論を紹介し、「かわいさは、幼児性とある非力さを示唆」し、これらは「支配したいというサディスティックな願望」を引き起こすと述べています(203頁)。ここで、この願望が誰のものか、そして誰が制御したい、あるいはされたいと思っているのか、という問いを立ててみたいと思います。ハローキティやその他の愛されるぬいぐるみたち同様、カワイイものは言葉を発しませんが、何よりもそれこそが彼らが愛される理由なのです。クリスティン・ヤノが示唆するように、カワイイものが言葉を持たず沈黙していることが、私たちが彼らに自分を重ねることを可能にするのです。

しかし、話さないゆえに、これら無音のものが本当は何を考えているかは決して分からないということに、私たちは常に気づいています。にゃーことにゃっ太は確かに非力な子どもですが、他者に対して残虐で冷酷になることにためらいがありません。私たちは自分自身をカワイイものに投影しますが、カワイイものはそう簡単に制御されません。カワイイものは私たちのサディスティックな願望を刺激しますが、カワイイものこそ、その願望を持っているのかもしれないのです。コワイイ猫であるにゃーことにゃっ太が、ぎこちないながら実際に話すことができるという事実が、猫という隠れ蓑を通じて、カワイイものが持つ不思議を露わにします。猫は、どんなに親密になっても理解できることのない生物です。にゃーことにゃっ太は、甘えに基づく双方向的な関係の構築を許してはくれませんが、私たち自身の内にある醜さと残酷さを反映しています。

「 Tamala 2010」におけるかわいらしい残酷さ

21世紀、かわいらしい残酷さを露わにするかわいい猫がもう一匹現れます。アーティスト集団Tree of Life(t.o.l)がプロデュースしたアニメ映画『Tamala 2010: A Punkcat in Space』[fig.3](3)が2002年に公開されました。

Tamala 2020 cat rounded by bandage Fig. 3. Tamala 2010: A Punk cat in Scape, Kinetique inc.,2002 AmazonにてDVD入手可能

この映画の予告動画 (YouTube)を見てみましょう。舞台は未来の東京、母親のいない子猫のタマラは、地球を出発し、オリオン星に住んでいるはずの母猫を探す旅に出ます。しかし、最終目的地を前に、タマラの乗った宇宙船はQ星に緊急着陸します。そこで、タマラはミケランジェロというハンサムな雄猫に出会います。エミリー・レインは、タマラはハローキティの戯画化だと述べていますが、私からすると、むしろ残酷さを隠そうとしないにゃーことにゃっ太の流れを汲んでいるように思えます。不安定な政治のためにQ星の治安は悪化していますが、タマラは恐れを知りません。クラブで大胆にも目立つ行動を取り、激しく踊り、やがて警官の恰好をした残忍な犬、ケンタウロスに目をつけられます。ケンタウロスの攻撃を受けたタマラの、頭がなくなった身体をミケランジェロが発見し、すぐに逃げだします。けれど、しばらくするとタマラは生き返り、巨大企業CATTY & Co.が販売するあらゆる日用品の様々なCMに登場します。

21世紀のかわいい

このアニメは、私たちのカワイイものに対する欲望が、資本主義的で物質主義的な社会と密接に関連していることを明らかにしています。タマラは確かに無邪気な子猫ですが、優しさを視聴者に見せることはありません。自己中心的で、他者の欲望を思いやることもありません。にも関わらず、大企業CATTY & Co.のあらゆるCMに登場することで、タマラは欲望される対象になるのです。同時に、タマラは私たちを消費社会のとりこにする存在でもあります。したがって、エミリー・レインが示唆するように、カワイイの中にある残虐さが究極的に私たちを支配し、「自然発生的な協力や相互の愛情に基づくコミュニティにおける異種間の絆」を消し去ります(198頁)。タマラは、その素っ気ない発言の中で、「ちょっと待って」というフレーズを繰り返します。タマラのこの誘惑するような態度は、非常に支配的です。『TAMALA 2010』は、カワイイものの中にある残酷さ、大胆さ、強情さ、そしてエロティシズムを明らかにすることで、21世紀のカワイイを再定義することを私たちに迫っています。

皆さんの考えは?

皆さんの文化的背景の下では、「甘え」の関係性についてどのように定義しますか?皆さん自身の社会、もしくは皆さん自身の経験における同様の依存の関係性を見つけ出すことができましたか? 皆さんが、誰かが誰かに依存していると思ったときには、「カワイイ」についてどのように感じていますか。

© Keio University
This article is from the free online

日本のサブカルチャー入門

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