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前史——近代初期日本の大衆文化におけるバトル・ナラティヴ

Prehistory: Samurai-culture/aesthetics in Kabuki and storybooks during the Edo period
© Keio university

日本の大衆文化におけるバトルものの起源について考えてみると、必然的に「忍者」という原型が日本文化のうちに成立した過程へと行き当たります。それをすべて紐解くにはとても多くの説明が必要でしょうが、今日はその歴史をごく簡単に見ていくことにします。

「武士道」の成立

江戸幕府が終わりを迎え、明治維新となる1868年以前にも、日本の大衆は様々な媒体を通じて多くの「バトルもの」を享受していました。その江戸時代(1603-1867)には、幕府の厳格な支配のもとで、それまでに比べてはるかに安定した社会が形成されました。江戸幕府初代将軍徳川家康が1615年の大坂夏の陣で決定的な勝利を収めたのちは、大きな戦が起こることはもはやなく、日本国内には平和が訪れました。そのような中では、武将や侍たちは「武士/戦士」としてはもはや必要とされず、国家の支配層へと変貌せねばなりませんでした。

興味深いことに、いわゆる「武士道」が花開き始めたのは、まさにこの時点でした。武士道は特定の起源を持つ、明確に規定されたイデオロギーというわけではなく、むしろ、儒教や仏教、神道がない交ぜとなったものでした。新渡戸稲造の『武士道』(1900)も山本常朝の『葉隠』(17世紀末/「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」の言葉が一人歩きして有名となりました)も、武士道の全てを網羅しているとは言えません。しかし端的にまとめれば、武士道とは正義、忠義、孝心、そして武勇を称揚しており、こうした美徳を守るために、つまり侍としての生を全うするためには、むしろ死も厭わないというのが侍の生き方とされたのです。ルネサンス期ヨーロッパに起こった西洋騎士道の理想化と似たような流れであると言えるかもしれません。

日本大衆小説におけるバトルもの——講談

それが事実に即していたか否かはともかく、日本の大衆文化は、この延長線上で武士たちの英雄的あるいは悲劇的な武勇伝を繰り返し語ってきました。歌舞伎や能といった舞台では、『平家物語』)(1)や『太平記』(2)にある目覚ましい戦ばたらきや、『忠臣蔵』(3)に見られるような重大な政治的事件が主題として扱われました。江戸時代後期になると、こういった物語は自由に改変され、「草双紙」や「読本」と呼ばれる、(目で読む)物語の形式で広く流布するようになります。舞台上でもページ上でも、これらは多くが勧善懲悪の物語で、復讐や忠義、孝心を背景に、華々しい戦いを描き出しました。

今日のテーマと関連するところでは、「講談」の発展がおそらくより重要と言えるでしょう。講談とは、舞台上で行われる独特の調子による読み聞かせのことです。『太平記』の意味や徳をおもしろおかしく解説しながら朗読した「太平記読み」(4)が、その始まりだと言われています。講談は他のジャンルの歴史物語と相互に影響を与えつつ、そのレパートリーを増やしていきます。そして江戸末期から明治初期にかけて、その人気は絶頂を迎えました。これはちょうど、西洋式の活版印刷技術が導入された時期に当たります。

講談本の発展と立川文庫

鶴見俊輔も述べているように、「明治以後の日本における大衆小説の発展」は、「1882年に田鎖綱紀が西洋から導入し日本語用に改訂した速記術と、江戸時代に寄席で行われた落語の融合」(5)に大きな影響を受けました。この融合による初の成果が、人気絶頂だった落語家・三遊亭円朝の幽霊譚(『牡丹灯籠』1884年(6))の出版でした。こうした技術の出現により、長い間、基本的には口頭でのパフォーマンスとして行われてきた講談は、「講談本」と呼ばれる活字の文学形式へと変化していきました。

講談本の出版で最も影響力を持っていた出版社の一つが、立川文明堂です。この立川文明堂が1911年、立川文庫(たつかわぶんこ)(7)という人気シリーズをスタートさせます。中心的な執筆者は講談師の玉田玉秀斎とその妻山田敬、その連れ子たちでした。独創的だったのは、彼らがすでにある物語を書き写すのではなく、講談「的」なスタイルで、独自の物語を創作していったことです。このシリーズは、安価かつ手軽なサイズで若者向けに販売され、大阪を中心にたちまち人気を博しました。

文学的イコンとしての「忍者」の成立

そのシリーズの物語と登場人物は子供たちを魅了しました。真田幸村に仕える、優れた忍術使いの少年・猿飛佐助は中でも有名でしょう。足立巻一も指摘しているように(8)、立川文庫の佐助シリーズは中国の冒険小説『西遊記』からヒントを得ており、佐助はその主人公・孫悟空を彷彿させます。

立川文庫の隆盛は、日本の映画産業の勃興期とおおむね重なっています。そして映画界においても、忍者は人気を博したのでした。この時期を代表する映画監督の牧野省三は特撮を得意とし、立川文庫の作品を含む多くの大衆娯楽映画を撮影しています。講談本と映画。勃興してきたばかりのこの二つのジャンルが組み合わさることで、創作ものにおける忍者のイメージが大衆の想像力のうちに根づいていったのです。

© Keio university
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