刻工集団の来朝

さて、五山版も、当初は中国の禅僧の語録など、禅籍を取り上げました。(fig.1)

^{Fig. 1. 国立歴史民俗博物館／禅林類聚　[左] [右]}

しかし、南北朝時代になり、漢学の専門家、漢文の作家としての地位が確立すると、それを受け継ぐために、辞書や百科全書、中国の古典、文学の名品集、元時代の文集などを出版したのです(fig.2)。

^{Fig. 2. 蒲室集
詳しい書籍情報と高画質画像は特設サイトでご覧ください。
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これら世俗の書物は、仏教界では「外典」と呼ばれます。具体的には、嵯峨の天龍寺で、元時代の文人范徳機の詩集(fig.3)が出版されたり、別に皇元風雅という当代の詩の名作集が刊行されたりしました。そして南北朝時代の半ば頃、この傾向に拍車をかける出来事が起こります。それは、貞治六年日本僧の勧めにより、中国の福州から、刻工の集団が来朝したことです。

^{Fig. 3. 范徳機詩集の比較（台北・国家図書館、五山版の研究）
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刻工とは、出版時に文字の彫刻を担当する職工のことです。記録によると、貞治六年七月に来航した刻工八名が、嵯峨の地に着いたとありますが、この年以降に刊行された五山版にはしばしば、陳伯寿、兪良甫といった、刻工の名が現れます(fig.4)(fig.5)。中国の出版では、印刷面の中に刻工の名や刻字数を彫っていますが、これらは担当者を明示し賃金を計算するためで、出版業の発達していた中国の習慣です。こうして、天龍寺や臨川寺などの禅院が立ち並び、当時五山版刊行の中心であった嵯峨の地で、来朝刻工の出版活動が展開されました。

^{Fig. 4. 禅林類聚（五山版） 詳しい書籍情報と高画質画像は特設サイトでご覧ください。
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^{Fig. 5. 国立歴史民俗博物館／唐柳先生文集・刊記 [左] [右]}

貞治六年という年は、中国では元の至正二十七年に当たり、元朝や地方勢力の大部分が朱元璋の軍に敗れ、翌年に明朝の開幕を控えた年です。実は、台湾海峡の西岸に当たる福州近辺は、元朝の遺臣が最後まで朱軍への服従を拒み、抵抗を保っていた土地ですが、翌年の制圧が迫っている情況にありました。また福州は建安と並び、当時の商業出版の中心地の一つであり、その福州の刻工が、戦乱を避けて日本に亡命してきたという事情のようです。

さて、福州(fig.6)が商業出版の中心であったことは、日本の書籍文化に少なからぬ影響を与えます。それは、来朝刻工たちが、商業的な考え方を持ち込み、独自の出版を展開したからです。もちろん彼等は、禅宗寺院とのつながりの中で出版活動を行い、その読者も多くは禅僧でしたが、俗人である刻工たちの意志により、中国の古典である儒経や道家の書、文集や辞書、百科全書など、仏典ではない漢籍が出版され、漢学者としての五山僧の需要を満たしていったのです。これは、寺院の専属であった従来の出版機構とは異なり、半独立の立場から、実験的な商業出版を行ったのに等しい内容でした。

^{Fig. 6. 現在の福州閩江
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日本の書籍文化は、来朝刻工の蒔いた種を育て、近世に至り商業出版の花を咲かせることになります。五山文化は、喫茶や沐浴、味噌醬油、饅頭などの飲食、書院造りの室内空間や池水石庭、水墨画や挿花、盆栽の装飾と鑑賞など、中国の影響下に、日本の生活文化を様々に革新しましたが、読書文化の変革についても、大きな足跡を遺したのです。