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江戸幕府にとっての『論語』

江戸幕府にとっての『論語』
Old Book Fig.1 『論語集注』常憲院本
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元和元年の元和偃武(げんなえんぶ 1615)によって、徳川幕府は諸侯に対する武力鎮圧を一応、終えました。家康は既に駿府に下がっていましたが、晩年の家康は書物を集め(駿河御譲本 するがおゆずりぼん)、駿府では銅活字を用いて、『大蔵一覧集』(だいぞういちらんしゅう)『群書治要』(ぐんしょちよう)を出版するなど、文化事業に力を注ぎました。

学者では、林羅山、南禅寺金地院(こんちいん)の以心崇伝(いしんすうでん 1569~1633)、日光輪王寺の天海(てんかい 1536~1643)、足利学校庠主(校長)三要(閑室元佶、さんよう かんしつげんきつ 1548~1612)などを登用し、関東で最も古い学問の中心でありました足利学校の図書が豊臣秀次によって京都に運ばれていたものを、関東に再び戻し、むしろ、京都を中心とした中世的な書物文化を全く新しい書物文化に変えようとしたのでした。こうした書物奨励政策が、江戸時代三百年の栄華を築いた基であったことは、強調されるべきでありましょう。幕府の紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)、それを元にした昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)の創設、そして、それを受け継ぐ尾張の尾藩(びはん)文庫・水戸の彰考館(しょうこうかん)文庫・和歌山の紀伊藩(きいはん)文庫は、徳川時代を象徴する書物文化政策を反映したものです。

こうした幕藩体制のもと、大学頭であった林羅山を祖とする林家の儒学は、中国の新しい学問である宋の朱熹を中心とする朱子学を奉じていたために、『論語』の受容も、朱子が、『論語』だけではなく、『大学』『中庸』『孟子』を加えて、『四書』として読むことを主張したことを受けて、江戸時代の『論』」は、『四書』一色に染まりました。特に学問付きの五代将軍徳川綱吉(1646~1709)は湯島の聖堂を建設、林信篤(はやしのぶあつ)を大学頭として、『四書集注』(ししょしっちゅう)を出版しました。後に、その『四書』は法号に因んで常憲院本(じょうけんいんぼん)と称されました。

© Keio University
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古書から読み解く日本の文化: 漢籍の受容

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