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カワイイと不思議

Kawaii does not only mean "cute" but some are "uncanny". This article explains more about Japanese Kawaii culture.
© Keio University

カワイイは、「キュート」という意味だけではなく、「不思議」という意味も表します。日本のカワイイ文化に関する次の論説を読んで下さい。

大串尚代「不思議なかわいい猫たち:少女漫画とアニメにおける日本のカワイイ文化を再考する」(2014年ロンドン開催のロイヤル・ソサエティ『Exhibiting Japan』にて発表)より一部抜粋

「カワイイ」という言葉の起源

カワイイの語源は、「かははゆし(顔映し)」です。この表現は11世紀頃から見られ、本来は「恥ずかしい」「きまりが悪い」という意味の言葉でした。12世紀には、「かははゆし」の発音は「かわゆい」に変化し、「恥ずかしい」「気まずい」を意味するようになり、その結果「何か/誰かをかわいそうに思う」「不憫な性質」という意味になりました。「かわはゆし」から派生した他の言葉には、「かわいそう(不憫だ、あわれだ、悲惨だ)」があります。愛らしい、美しい、可愛らしいという意味での「かわいい」が初めて現れるのは16世紀になってからのことです。したがって、「かわいい」という言葉は、憐憫にもとづく優しさという感情を喚起するものだと言えるでしょう。

著名な文化評論家である四方田犬彦も、カワイイに興味を持ち、その入門書的著作(4)を2006年に発表しています。四方田はカワイイの意味を巧みにまとめ、小さく、無邪気で、弱く、未熟で、未完成で、はかない物/人、(略)守ってあげたい物/人を指すと述べています。また、カワイイは時を止め、成長や成熟を先送りしている物/人だとも述べています。

したがって、カワイイは、何らかの関係性を持ちたいという願望の対象となる物/人なのです。カワイイは、保護者/被保護者、支配者/被支配者、制御者/被制御者といったありふれた二項対立を喚起しますが、カワイイには人を支配する力もあります。未完成で未熟であるがゆえに、カワイイは完全な理解や把握が難しく、このことが最終的には不思議への扉を開くことになります。この点については、また後で述べることにします。

その前に、ハローキティについて考えてみましょう。キティは、ロンドン郊外に生まれ、仲の良い家族とともに育ちました。この家族は核家族で、父親、母親、そしてキティの双子の妹のミミィで構成されますが、ミミィにスポットライトが当たることはほとんどありません。ハローキティはすてきな家に住み、ペルシャ猫のチャーミーをペットとして飼っています。キティは小さく(公式プロフィールによれば、身長はリンゴ5個分)、無邪気で未熟に思えます。四方田の研究によるカワイイの基準に従うなら、ハローキティはカワイイをまさに体現する存在です。

カワイイと甘え

それでは、ハローキティの家族はどうでしょうか。この家族がどこか奇妙であることに気づくかもしれません。大人たち、つまり父親、母親、祖父、祖母は皆、にっこり微笑んでいます。目を閉じているのは、ある文化では微笑みのサインです。これに対し、キティは(そして妹のミミィも)、口が無く無表情です。実は、キティの無表情に関するサンリオの公式説明は、カワイイの秘密を的確に解き明かしています。サンリオによれば、キティに口が無いのは、一緒にいる人と感情を共有するためなのです。あなたが幸せなら、ハローキティも幸せ。同様に、あなたが悲しいときは、ハローキティはその感情に寄り添います。ハローキティがあなたの感情の鏡であるならば、キティは支配の対象ではなく、人が自己を同定する対象となります。

Kitty on the cover Fig. 1. Pink Globalization: Hello Kitty’s Trek across the Pacific(ピンク・グローバライゼーション:ハローキティの太平洋横断), by Christie Yano, Duke UP, 2013. – 表紙

このことについて、クリスティン・ヤノは昨年発表した「Pink Globalization: Hello Kitty’s Trek across the Pacific(ピンク・グローバライゼーション:ハローキティの太平洋横断)」[fig.1] (3)の中で次のように鋭い指摘を行っています。「ハローキティなどのカワイイものは、守ってあげたいという優しい反応を引きだします。(略)しかし、日本では、これにあるねじれが加わっています。一部の消費者は、カワイイ日用品を身につけるだけでなく、カワイイものそのものになりたいと思っています」(3, p.56) 。ヤノは、キンセラの議論(2)を踏まえ、カワイイものになるという行為が、日本の文脈でかわいさを理解する上で重要だと述べています。アン・アリスンは、このカワイイとの自己同定は、日本文化の甘えに根差した関係性を反映していると正鵠を射た主張を行っています。

Book cover Fig. 2. 土居健郎『「甘え」の構造』 1971年 講談社インターナショナル 1973年 – 表紙

1971年に高名な精神分析家である土居健郎が『「甘え」の構造』 [fig.2] (1)を著して以来、甘えは他のどんな概念よりも頻繁に日本文化の特徴として考えられてきました。字義的には「甘くすること」を意味する甘えは、土居によれば、日本文化において双方向的関係性を構築するために欠かせない、寛大な他者依存の態度です。土居は、「言い換えれば、甘えは、子どもの精神がある程度成長し、母親が自分とは別個の存在であると認識したときに、なお母親を追い求める態度を示すために用いられる。つまり、甘えを開始するまでは、子どもの精神的人生は、言うなれば子宮の中での生の延長線上にあり、母と子は未分離である。しかし、子どもの精神が成長するに従って、子ども自身と母親が別個の存在であることに徐々に気づき始め、母親を自分にとって不可欠なものと感じるようになる。このように形成される密着への切望が、甘えを構成していると言えるだろう」。土居は、この現象は日本文化に限定されるものではないと認めていますが、「甘え」の翻訳不可能性に着目し、「日本人の思考」を理解する上で有効だとも述べています。

カワイイと少女文化

ここで、『「甘え」の構造』(1) が、無表情によって人の感情を映しだすかわいい存在、ハローキティが誕生するわずか3年前に発表されていることを思いだしましょう。社会学者の宮台真司は、1960~1970年代の少女文化におけるカワイイの歴史的文脈を説明する論考の中で、土居健郎の主張に触れることなく、若者文化の拡散が、漫画雑誌に頻繁に現れる伝統的な母子の物語をいわゆる「高校ドラマ」として再生していると分析しています。宮台は、60~70年代の少女の自己形成は、母親など家族内の年長者からの分離と、他者との新しい関係性の発見を伴っていると述べています。若者文化は、純粋・素直・美といった伝統的な少女のお手本の代わりに、少女たちが追いかけることになる新たな基準をもたらしました。それは、他者と新たな甘えの関係を築くための、カワイイ文化への傾倒でした。1974年に生まれたハローキティは、他者との「甘え」的依存関係を必要とする少女の「密着への切望」を受け入れる対象となったと言えるでしょう。

皆さんの考えは?

すでにお分かりのように、カワイイとは、保護したいと思う何かを意味しますが、それと同時に、依存したい何かを意味するとも考えられます。皆さん自身の文化にも同じような概念がありますか?

© Keio University
This article is from the free online

日本のサブカルチャー入門

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