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書物の力

書物の力
© Keio University
日本の古典が、歴史上初めて次々に出版されるようになった近世という時代は、古典をより正しく理解し、より深く研究したいと欲する人々を数多く産み出しました。

中世までであっても、例えば和歌の世界では、『古今和歌集』や『源氏物語』などの書物が古典として重んじられ、それらのテキストについての研究が積み重ねられてきましたが、そうした研究を担っていたのは、主として公家とその周辺の、極めて特権的な一部の階層にほとんど限られていました。近世の古典研究者には、そうした特権的な階層ばかりではなく、より幅広い階層に出自を持つ人々が含まれています。これも書物の普及によってもたらされた現象です。

契沖

Keichū, *Man’yō daishōki*, 23 vols, formerly in Matsudaira Sadanobu’s collection, Matsudaira Family, Kuwana fief 図1. 契沖撰『万葉代匠記』二十三冊(松平定信・桑名藩松平家旧蔵)
上:全冊/下:巻頭
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真言宗の僧侶であり、近世前期を代表する古典文学研究者でもある契沖(けいちゅう)(1640-1701)の研究方法は、書物が普及した近世という時代にじつにふさわしいものでした。彼の主著である『万葉 代匠記(まんようだいしょうき)』(図1)は、奈良時代に成立した日本最古の和歌撰集『万葉集』の注釈書です。江戸時代に生きる契沖にとって、『万葉集』は約900年もの昔に成立した書物でした。そのような遠い過去の文献を読解するにあたり、契沖は『万葉代匠記』の中で、読解のための原理原則を明記しています。契沖の立てた原則とは要約すると以下のようなものでした。

  • 『万葉集』の成立当時の意味の復元に努めること。その際、読み手の属している時代の常識や知識、先入観はいったん全て忘れ去ること。
  • 『万葉集』を解釈するにあたっては、『万葉集』となるべく近い時期に成立した文献のみを参考にすること。
  • 後世に付与された解釈は、成立当時のものとは齟齬がある可能性があるため鵜呑みにしないこと。

契沖の目指したことは、古代の文献資料に基づく、『万葉集』成立当時の意味の厳密な復元でした。契沖はその方法論を用いて、『万葉集』のみならず『古今和歌集』などの古典文学書の読解を進めてゆき、その結果、従来の学説に大きな変更を迫るいくつもの発見を残しています。

こうした研究方法は、現在の私たちにとっては当たり前に思えるかも知れません。とはいえ、『万葉集』をはじめとする和歌の研究史上では、契沖以前にこれほど原理的な文献主義の立場を打ち出したものはありませんでした。和歌の研究においては、公家などの特定の師のもとで、その学派において蓄積されてきた知識を修得することが長らく重んじられていたために、文献よりも師の講説の方が重視される傾向がありました。契沖は、特定の師に就いて和歌を学んでいたわけではなかったので、そうした師弟関係に縛られることがなかったということもできますが、むしろもっと重要なことは、このような研究方法を採用できるだけの書物を、契沖が手にとって読むことができたという、書物をめぐる環境です。契沖は『万葉集』を読み解く上での参考文献として、『日本書紀』『懐風藻(かいふうそう)』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『古語拾遺(こごしゅうい)』『新撰万葉集』『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』といった奈良時代から平安時代にかけて成立した書物の名前を挙げています。

これらは契沖が『万葉代匠記』の執筆に着手した1683年の時点で、既に全て出版されていました。そして当然ながら、これらの書物はどれひとつとして近世以前には刊行されていません。契沖の文献に基づく実証主義的な研究方法は、すでに主要な古典が一通り出版され終わっていた17世紀末であったからこそ実現可能であったのです。契沖の学問的な基礎が古典の出版物に基づく学習にあったことは、契沖が自説を版本に書入れたものが複数残っていることからも確かなことです。そうした契沖が自筆で書入れた版本のひとつを慶應義塾も所蔵しています(図2)。

Kasen kashū (Poetry Collections of the Immortal Poets) with marginalia by Keichū, Shiigamoto bunko **図2. 『歌仙家集(かせんかしゅう)』(契沖書入本・椎本(しいがもと)文庫)
上:全冊/下:柿本集巻頭部

本居宣長

契沖の登場以後、契沖のような文献主義的な立場から古典を読み直し、再評価しようとする、国学者あるいは古学者・和学者と呼ばれる人々が次々に登場するようになります。荷田春満(かだのあずままろ)(1669-1736)、賀茂真淵(かものまぶち)(1697-1769)、本居宣長(1730-1801)が代表的な人物ですが、とりわけ本居宣長は出版の持つ力を最大限に活用した学者でした。

宣長は伊勢松阪の商人の家に生まれ、商売に向かない性格であったために家業を継がず、医師として身を立てつつ古典の研究に取り組み、とりわけ奈良時代に編纂された歴史書『古事記』に関する卓越した研究業績を残した人物でした。彼の『排蘆小船(あしわけおぶね)』という問答形式の著作の中に次のような記述があります。

(原文) 常縁何故に古今伝授と云ふことを作りたるや。答へて云はく。本朝に昔は、書物に板本と云ふことはなかりしなり。板本はいと近き世になりてのことなり。昔はみな写本にて行はれしなり。しかるに足利将軍家の末に至り、天下大きに乱れて世の中騒がしかりしゆゑに、昔の書物ども多く失せて世に稀なりしに、この常縁多く古書を所持して、世になき書物どももありしなり。その中に定家卿の顕注密勘などその外もあるをみて、それに本づきてさまざまのことを作り加へて、古今伝授と云へるなり。その比は世に書物少くして、古書をみること稀なれば、常縁が云ふことを珍らしく思ひ、まことに貫之より相伝のむねと心得たるなり。今の世には古書もあまねく世に広まりて、古へを考ふるに暗きことなければ、かの作りごとも書物をみれば弁へらるることなれども、そこへ心を付けてみる人少くして、なほかの偽物に欺かれてゐるなり。
(現代語訳) 「東常縁(とうのつねより)(歌人としても活躍した戦国時代の武将)はなぜ古今伝授(『古今和歌集』に関する秘伝)というものを作ったのでしょうか?」「その答えはこういうことです。日本の古典は、かつては出版されることはありませんでした。出版されるようになったのはごく近年になってからのことです。昔はみな写本ばかりでした。室町時代の末期、戦乱が続いていたために古い書物は戦火によって多くが失われてしまっていたのに、この東常縁は多く古い書物を所持していて、その中には世の中に知られていない書物もあり、藤原定家の『顕注密勘(けんちゅうみっかん)』などの『古今和歌集』の注釈書も含まれていました。それをもとにして色々と書き添えたりなどして、古今伝授という秘伝をでっち上げたのです。その当時は、書物が世の中にあまり流布しておらず、とりわけ古い時代の書物は珍しかったので、常縁の主張も真実らしく聞こえて、平安時代『古今和歌集』の編纂に関わった紀貫之から伝わった本当の秘伝であるかのように思われていたのです。とはいえ、現代では古典の書物も出版されて広く流布していて、昔のことを調べるにも困難なことは何もありません。古今伝授などというものが後世の捏造であることは、そうした古典を読めばすぐに判明することです。それなのにまだまだそこまで深く考える人は少なくて、今でも古今伝授などというものが権威を保ち続けているのです。」

驚くべきことに、本書を書いた時点で宣長はまだ20代半ば頃だったのですが、ここでは旧来の和歌研究の問題点と、それを乗り越えるための処方箋としての書物の力の有効性が極めて明晰に語られています。おそらく契沖以上に宣長は書物や出版が持つ力について自覚的でした。そのことは宣長が自分の著作を積極的に出版したことからもわかります。実は、宣長以前の古典研究者の多くは生前に自著を出版することは稀でした。契沖が生前に刊行した著作は2点、荷田春満は皆無であり、賀茂真淵も2点のみという少なさです。一方で宣長が生前に刊行した自著は約30点にものぼり、その差は歴然です。

このことは宣長自身の意向もあったのですが、宣長が活躍していた18世紀後半が、古典研究が流行した時代であったことも関係しています。現に、契沖や賀茂真淵、荷田春満の著作は18世紀末から19世紀前半にかけて、彼らの没後、その業績に対する評価の高まりに伴って、盛んに出版されるようになります。そのような時流にも乗って、弟子たちにも助けられながら、宣長は自身の著作を積極的に出版しました(図3)。

Motoori Norinaga, Suzunoya-shū, 9 vols 図3. 本居宣長『鈴屋集』九冊
上:全冊/下左:刊記/下右:巻頭
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生前に著作を出版することによって、その学説も世上に流布し、宣長への入門希望者もますます増加してゆきました。宣長は増え続ける門人を管理するためのリストを作製していて、そこには500名以上の名前が並んでいます。日本の全国に宣長門人のネットワークが形成されていたわけですが、彼らを繋げていた媒体のひとつが宣長の出版物だったことは確かです。

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古書から読み解く日本の文化: 和本の世界

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