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孔子の一生と論語の成立

孔子の一生と論語の成立
A drawing of the old Chinese philosopher
© Keio University

孔子は中国の山東省、かつて魯(ろ)と呼ばれた国の昌平郷陬邑(しょうへいきょう すうゆう)というところに、紀元前551年生まれました。

中国は、殷の紂王を滅ぼして周の武王が紀元前1027年に鎬京(こうけい 今の西安)に都し(西周 せいしゅう)、以後、理想的な政治が行われましたが、幽王の代(紀元前781~771)に勢力衰え、次の平王は紀元前770年に洛邑(らくゆう 今の洛陽)に都を移し、東周(とうしゅう)の時代となりました。

その後、次第に列国の力が増し、周王室も王権を発揮する時代から、不安定な争いの時代を迎え、東周は紀元前403年までを春秋時代と言い、それから、紀元前221年秦の始皇帝(しこうてい)が統一するまでを戦国時代といいます。春秋時代はすでに平和な世ではなく、諸国の軍事活動は庶民の生活を圧迫しておりました。そんな時代に孔子が世に生まれ、活躍したのでした。

ちなみに、仏教の始祖・釈迦も紀元前565年頃の生まれですから、インドで仏教が説かれている頃、孔子も諸国を遊説していたのでしょう。

孔子は非凡な成長を遂げ、魯国で官吏となり、34歳の時、周の都に至り、老子に教えを請いました。翌年、斉(せい)に外遊し、そこで周の国の音楽を聴いて感動したと言います。その後、周の学問文化を学び、『周易』(しゅうえき)などは、「韋編三絶(いへんさんぜつ)」(三度本の糸がほぐれた)と言われるほど、勉強しました。50代には魯の中都(ちゅうと=地名)の宰(さい)・司空(しくう)・大司寇(だいしこう)となり、法務大臣となって善政を行いました。55歳の時、魯を去って、衛・宋・鄭・陳(えい そう てい ちん)などを遊歴しました。孔子は諸国の理想とする政治を説き、自分に政治を任せれば良い国作りができると自負して歩きました。危険な目にも遭いながら、遊説した年月が約14年間でありますから、その覚悟のほどが伺えます。そして、68歳の時、魯に帰り、紀元前479年に73歳で死去するまで、書物を編纂し、特に72人の秀でた弟子のほか、3千人もの弟子を育てたと言われます。

Story pictures of Confucius Fig.1聖蹟図 https://www.fl-keio.info/fl_img/course03/week2_all.html#2.3
[左:孔子出生図] [右:孔子官吏図]

孔子の一生を104枚の図をもとに解りやすく説明したものに、『聖蹟図』(せいせきづ)があります(fig.1)。また、漢の司馬遷(しばせん)は、『論語』の記事をもとに、『史記・孔子世家』(しき こうしせいか)を著しました。

© Keio University
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古書から読み解く日本の文化: 漢籍の受容

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